チェロ弾きの平日~日々の記録とひとりごと
2024年10月25日ー26日に開催される土井きりWebオンリー『土井きり日和』への展示作品です。
は組から見た二人の片思いを11の掌編にまとめました。
山田先生のみ、再利用です。申し訳ありません。(元作品はこちら→https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=22372044)
※直接的な表現はありませんが、BL要素が含まれますのでご注意ください。
は組から見た二人の片思いを11の掌編にまとめました。
山田先生のみ、再利用です。申し訳ありません。(元作品はこちら→https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=22372044)
※直接的な表現はありませんが、BL要素が含まれますのでご注意ください。
【 一、山田伝蔵 】
「山田先生って、利吉くんが来ると急に家庭の色が出ますよね」
教員長屋での執務中、土井の口からそんな言葉が出てきたのは、先ほどまで利吉が来ていたからだ。
忙しいのを理由になかなか帰省しようとしない山田に、一人息子である利吉はたびたび洗濯物と母からの伝言(という名の文句)をこの忍術学園の職員長屋まで届けに来る。仕事のついでとはいえわざわざ遠回りをして忍術学園に来てくれたというのに、山田は仕事の邪魔だと言わんばかりに追い返す…そんな景色は、もはや忍術学園名物の一つかもしれない。
「そんなことないだろう?」
「いや、そんなことありますよ。さっきは言い合いでしたけど、利吉くんが仕事から帰ってきたとき、ご自分がどんな顔してるか知ってます?」
自覚はないが、普段から危険な仕事を請け負っている息子に対して、無事に帰ってきたことに胸をなでおろしていることは確かだ。鏡を見せてあげたいですよ、と土井が言うのだから、よほど安心した顔をしているのだろう。正直、売れっ子だのなんだのという評価より、より安全な仕事をしてくれればいいのにとさえ思う。息子にとっては余計なお世話かもしれないが。
「でも半助、アンタだって大概でしょ」
自分のことを指摘されて分が悪くなった山田は、少しだけ意趣返しをする。
「そんなことありませんよ、私には付き合いの長い家族はいませんし」
余裕な顔で反論する土井に、山田は呆れた。
「何言ってんの。きり丸とのやり取りなんて、まさに家庭の色しか出てないじゃないの」
例えば、昼食のとき。土井が嫌いな練り物をこっそりきり丸に押し付けてるのを見たのは、一度や二度ではない。
は組が校外実習を終えて帰ってきたときだってそうだ。本人は贔屓のないよう気をつけているつもりかもしれないが、きり丸が無事なのを確認するとあからさまにホッとした表情を見せる。
家のことで何か問題が起これば、一人で帰ればいいものを、いちいちきり丸を連れていく始末。
は組の良い子たちはまだ気づいていないかもしれないが…いやもう、観察力のある子たちにはバレているかもしれない。
「私、そんな顔してます?」
「してますよ」
そんなつもりないのに、と頭を抱えてしまった土井の様子を見て、山田は苦笑いした。
「ま、アンタが幸せならいいんだけどね」
山田は書類を纏めると、相方のために茶を入れるべく部屋を出た。
【二、福富しんべヱ 】
「えーん、二人ともまってよぉ!」
冬休み明けのある寒い日、溶けきらぬ雪の中で行われた裏々山の校外実習。実習の班は、いつものごとく同室三人で組んだ。どちらかといえば落ちこぼれ組の三人だが、しんべヱはあとの二人に輪をかけて遅れ気味だ。先を行く二人を追いかけているうちに、溶けてぐずぐずになった雪につるりと足を滑らせて、「わぁ!」尻もちをついた。これで、三度目である。
「もぉ、しんべヱ、またぁ?」
「しんべヱ、もうちょっと気をつけろよ!」
二十歩ほど先を行く乱太郎ときり丸が、振り向いてこちらに声を掛ける。
すでに袴の尻のあたりは濡れてびしょびしょ、冷たくて重い。その上、尻もちをついた分だけ余計に体力を消耗しており、当然お腹も空く。
「ボク、もうムリ…」
「そんなこと言っても、実習だから途中でやめるのは無理だよ」
もぅ...と溜息を吐きながらも、結局世話焼きな二人はこちらに戻ってきてくれた。申し訳ないとは思うけれど、この二人がいるからこの学園でなんとか頑張っていられることを、最近しんべヱは少しだけ理解してきている。
「ほら、しんべヱ、頑張れ」
そう言って、乱太郎ときり丸が手を差し出す。
しんべヱがその手に自分の手を載せると、ギュッと握られてグイっと引っ張られた。
「もう少しで学園につくから、食堂でおばちゃんになんかおいしいもんでも作ってもらおうぜ」
きり丸はようやく立ち上がることができたしんべヱの肩の荷物をスルッと抜き取ると、自分の肩に背負う。
「しんベヱ、早く〜」
乱太郎はすでに先に発って、この先の雪道が危なくないか確認してくれているようだ。
きり丸はしんべヱの背中をポンと叩くと、しんべヱを先導するように歩きだした。
しんべヱもそれにつられて歩き出そうとして…
―――あれ?きり丸ってこんな子だったっけ?
ふと、小さな違和感がよぎる。今までのきり丸は、どちらかというと他人に対してキツイ印象が強かった。でも今は、なんだか優しく頼れる雰囲気がある。誰かに似ているような?
「しんべヱ、行くぞ」
誰なのか思い出そうとして再び動きが止まったしんべヱに、きり丸が呼び掛ける。
「あ!」
しんべヱは思わず声をあげた。ふいに過ぎった微かな面影、でもだが、今それを口に出したらなんだか怒られそうな気がして、口を手で押さえる。
「?」
きり丸は不思議そうな顔をしているが、しんべヱはふふっと笑って、一歩前へ踏み出した。
―――そっか、土井先生に似てるんだ!
いくつかの長期休みを一緒に過ごしているうちに、なんとなく二人の雰囲気が似てきたのだろう。きり丸は土井先生に、土井先生はもしかしたらきり丸にちょっと似てきたかもしれない。
なんだか嬉しくなったしんべヱは、先ほどまでの亀の歩みはどこへやら、軽い足取りで乱太郎を追いかけた。
【 三、山村喜三太 】
二年生に進級して最初のひと月が過ぎたある日、喜三太は担任たちに、教員長屋に来るように呼び出された。
「失礼します」
授業が終わって教員長屋の担任の部屋に行ってみると、土井と山田が神妙な顔をして座っている。山田が二人の前を指さすので、喜三太は抱えていたナメ壺をおいて、二人の前に座った。
「何かお話でしょうか?」
「そのナメ壺のことなんだがな…」
簡潔に言うと、授業中にナメ壺を教室に持ち込むなということだった。実技の授業にはさすがにナメクジたちが逃げてしまう可能性があるので外に持ち出さないが、教科の授業のときには喜三太はナメ壺を教室に持ち込むことも多かった。
「なんでですか?一年生のときはダメって言わなかったじゃないですか!」
「ダメと言っていないことはないんだが」
目の前で担任たちが頭を抱えるが、そんなことは気にも留めず喜三太は憤慨した。せっかくかわいいナメクジさんたちと穏やかに過ごせる時間なのに。それを取り上げられるとは!
「ボクはナメクジさんたちと離れるのが嫌なんです。ずっと一緒にいたいんです!実技はダメでも、せめて教科の時間は一緒にいたい!」
「いやだから、今までは見逃してやったけれども、さすがに進級したのだからそろそろ授業中はナメクジから離れられるようになりなさい」
「そんなこと言って、ボクとナメクジさんたちの仲を裂こうっていうんですか!!」
喜三太の反論に、山田は頭を抱えてしまった。
そこでしばらく額に手を当てて考えていた土井が、静かに口を開いた。
「あのな、喜三太。離れている時間があるからこそ、好きな子と一緒にいる時間がより幸せに感じるんだ」
「はにゃ?どういうことですか?」
突然話の方向性が変わり、ついていくのが難しかった喜三太は、躊躇することなく土井に聞き返す。
「ずっと一緒にいたら、一緒にいることが当たり前になってしまって、一緒にいることを幸せと感じられなくなるかもしれないぞ?」
なるほど、土井の言うこともあるかもしれない。
ずっとナメクジさんと一緒にいることが当たり前になってしまったら、感謝することもなく生活するだろう。そして、何かのきっかけでナメクジさんたちと離れなくてはならなくなった時は…きっと喪失感で耐えられなくなるかもしれない。いずれ来るかもしれないそんな日を想像して、喜三太はうっすらと涙を目に浮かべた。
「確かに、離れている時間を乗り越えて再会した時は、きっとすごく嬉しくなると思います!」
「喜三太、わかってくれたか!!」
嬉しそうに身を乗り出す土井に、喜三太もにっこりと笑顔を返す。
「わかりました、授業中はナメさんたちに部屋でお留守番してもらうようにします」
本人が納得して了承してくれて良かった、と土井と山田は胸をなでおろした。
室内が穏やかな空気に満たされた。先生方とゆっくり話ができそうな雰囲気に、喜三太はこのままこの場を立ち去るのはもったいない気がして、先ほどの土井の発言について聞いてみる。
「でも土井先生、そんな風に言うなんて、先生も好きな子がいるんですか?」
「は?」
土井が、瞠目して、そして固まった。
「その好きな子は遠くにいるんですか? いつも一緒にいられないんですか?」
あまりにも土井が分かりやすく具体的に説明するものだから、きっと土井にも大切な存在がいるのだろうと喜三太は思った。ただそれだけなのだ。
しかし、場の雰囲気がなんだかおかしい。
「なんだ、土井先生。そんな娘がいるのかね」
「いや、あれは例え話であってですね…」
何故だか慌てる土井を、山田は訝しい目で見る。
「先生も、好きな子とは本当はずっと一緒にいたいと思ってるんですね!」
喜三太の最後の一言が効いたのか、土井は胃を抑えて蹲ってしまった。
「喜三太、もう下がっていいぞ。半助は、今の話についてもう少し時間をとって話そうか」
「はい!ありがとうございましたー」
山田から退室許可がでた喜三太は、立ち上がってナメ壺を持ち上げると、戸を開けて廊下にでる。
「失礼しましたー」
戸を閉めようと振り返ると、土井は山田にこちらを向くようにと指示されているところであった。
何か自分は、おかしなことを言っただろうか?
「ま、いっか」
自分が爆弾発言をしたせいだとは露も思わず、喜三太はナメ壺を大事そうに抱えて自室に戻っていった。
【 四、夢前三治郎 】
それは三治郎が委員会活動の一環で、一人で生き物たちの世話をしている時のことだった。風が人の気配を運んできて振り向くと、珍しくきり丸が一人でやってきて三治郎に声を掛けてきた。
「なあ、三治郎の父ちゃんって、確か山伏だったよな?」
「そうだけど」
それがどうしたというのだろう?きり丸の意図がわからず、三治郎は首をかしげる。
「あのさ、山伏って普段どんなことしてるんだ?」
なるほど、きり丸が自分のところに来た理由はこれか、と三治郎は納得する。
「山伏のことについて知りたいの?」
「そう。山伏って何してるのかよく知らないからさ」
「でもなんで急に山伏のことなんか?」
「いや、それはその…」
きり丸はキョロキョロと周りを見回して、周りに誰もいないことを確認する。
「別に言いたくないなら、いいけど」
「いや、そうじゃないんだけど」
きり丸は少しだけ考えるそぶりを見せてから、決意したのかしたように三治郎の顔を寄せて小声で話し始めた。
「これ、みんなに言わないでほしいんだけどさ。土井先生さ、昔、山伏のような修行してたことがあったらしくて」
「なるほど、それで知りたかったのか」
山伏と聞いても、一般の人にはピンとこないのだろう。山伏の装束や山で修験をしているということは知っていても、その修験内容は表沙汰にされるものではないため、山伏と深く関わりのある人でもない限り未知の世界と言われても仕方がない。
三治郎自身は父親について修験山に入っていくこともあるから、自分にはまだできない修験もあるけれども、大体何をしているのかということは知っている。
「前に土井先生が記憶なくしてドクタケに囚われてたとき、先生、すげぇ性格が鋭かったじゃんか。忍術学園の記憶がなかったってことは、忍術学園にくる前の性格があんなだったのかな?って思ってさ」
きり丸なりに、土井のことを知ろうとした結果が、この山伏の話なのだろう。
「土井先生に直接聞けばいいじゃない」
「聞いたけど、教えてくれねぇんだよ」
三治郎はやり取りをしながら、きり丸の変化を感じて少し嬉しくなった。
三治郎は何となく他人の周りに吹く風のような、そういったものを感じることがある。最初の頃のきり丸の周りは黒っぽいキリッとした風がぐるぐると渦巻いていた。その頃は、他人のことを深く知ろうとしたり、関わろうとしたりすることはなかったと思う。けれども今のきり丸は、人に積極的に関わろうとしている。取り巻く風も温かく穏やかだ。きっと少しずつ成長しているのだろう。
土井に関する自分たちの知らない情報を、きり丸だけが知っているという事実は、休み中一緒に過ごしているので当然ではあるのだが、は組の一員としては担任をとられたようで少し寂しいような気もする。だが、同時に級友としては、今までのきり丸を知っているだけに、他人同士の二人が仲違いすることなく平和にやっているのは嬉しい。
ふわりと風が吹く。きり丸の周りがほんのり明るくなった気がした。
「いいよ、教えてあげる。その代わり、生き物たちのお世話手伝ってくれる?」
「くれるぅ?」
「あ、違った。手伝わせてあ・げ・る!」
「もちろん!」
こうやってきり丸が自分を頼ってきてくれたことが嬉しくて。
三治郎は、きり丸もお世話しなければならない生き物のようだななどと思いながら、自分の知る限りの山伏の情報を伝えるのだった。
【 五、二郭伊助 】
伊助の所属する火薬委員会には、他の委員会には内緒の秘密の集まりがある。卒業生の久々知兵助が始めた、豆腐会である。委員長を斉藤タカ丸が引き継いでからは豆腐に登壇する率は減ったが、集まり自体は定期的に行われていた。
タカ丸は現在六年生だが、転入してきたため他の六年生よりも年齢が二つ上だ。さらに春に久々知が卒業してから、ますます他の委員と年が離れてしまった。故に、豆腐会では顧問の土井と楽しそうに話すことも多い。伊助は、その話を横で聞いているのが好きだった。
タカ丸は元髪結いという職業柄か、相手から話題を引き出すのがうまい。さらに、派手好きということもあって、恋バナをするのも好きだった。
今日の豆腐会では、土井がその恋バナの標的になってしまったようだ。しつこいほどのタカ丸の攻撃に、土井も逃れようと必死である。伊助は土井を気の毒に思いながらも、聞いたことのない担任の浮いた話が聞けるかもしれないと、内心わくわくしていた。
「でー、土井先生はイイヒトはいないんですか?」
「ここでもか…どうだっていいだろう、私のことなんて!」
単刀直入に聞いても、もちろん素直に返ってくるわけもなく。
「いや、どうでもよくありませんよ。尊敬する顧問の先生が、ボクたちの世話のために結婚できないとあっては、大問題です!」
そのためには、土井先生にはぜひともイケメンになってもらわないと!と櫛と鋏を構えて目を輝かせる。土井は隣に座っているタカ丸から、できる限り離れようと体をそらせた。
「まあ、もちろんそんな暇もないというのもあるんだが」
「じゃあ、暇があればいいんですね」
「そうじゃなくて!」
タカ丸の話術に巧みにのせられていく土井を見て、伊助は面白いなぁと思う。静かに行動するのも忍びであるが、こうやって相手をのせて話を引き出す(といっても、喜車の術ともちょっと違うような)のも、また忍びの術なのかもしれない。
伊助がそんな風に考えて眺めていると、土井は一度咳払いをして心を落ち着かせ、そして口を開いた。
「そうだな。私はね、自分の血が次世代に繋がれるべきではない、というかその資格がない気がするんだ」
この言葉に、後輩たちと別の話をしていた三郎次と石人が土井の方を向く。伊助も、あっと思った。
土井が言いたいのは、自分の生い立ちのことなのだろう。あまり詳しいことは聞いていないが、あの土井が以前記憶を失ったときに出てきた人格が、土井の生い立ちに深く関わっていることは間違いない。
後輩たちにはうまく伝わっていないようでぽかんとした顔をしているが、ここでそれを深堀りして説明する必要はないだろう。
「あー、すみません…」
しまったと、タカ丸が一瞬慌てた顔をしたが、土井は特に咎めることもせず続ける。
「幸い、今はかわいい子どもたちと、信頼できる先生方や周りの方々に囲まれて、穏やかに過ごしている。もし私に何かあっても迷惑をかけなくてすむ。それどころか、自分に何かあったら、必死に探して守ってくれる人がいる。これで十分だと思うんだ」
こうやって火薬委員会のみんなと穏やかに過ごせる時間も楽しいしね、と豆腐を口にしながら土井は続ける。
「今の生活に満足しているんですね」
「そうだな。今の生活に満足しているどころか、今が至福だと思っている」
そう断言する土井の顔がたいそう穏やかで、伊助は思わず見惚れてしまった。
「言いにくいことを聞いてしまって、すみませんでした」
タカ丸が謝ると、土井は笑って「気にするな」とタカ丸の肩をポンと叩いた。
「悪いんだが、仕事が残ってるからそろそろ退散するよ。ご馳走様」
「はい、ありがとうございました」
皆で立ち上がって、土井を見送る。土井は「片づけよろしくなー」と言いながら去っていった。
「あーあ、逃げられちゃった」
土井の姿が見えなくなったところで、タカ丸が溜息をついた。その言葉に、伊助はギョッとする。
「先生、いい人なんていないって言ってたじゃないですか」
「言葉は濁してたけど、いないとは言ってない。あれは絶対、イイヒトいるね」
タカ丸が断言する。
「え?」
「だって、至福だって言った時の目、あれは誰かを想う目だもの」
伊助はにわかには信じられず、瞬きをしてタカ丸を見つめた。
「ただ、そのイイヒトは人には言えない相手なのかもしれない。言ったら都合が悪い…そうだな、敵対する城の姫とか、同性とか。もしかしたら生徒かも?」
伊助が土井のあの目を見たのは、実は今回が初めてではない。それどころか、割と頻繁に見る気がする。穏やかで、愛おしそうに相手を見つめる目は、三年は組の中では当たり前のようにあって。
「そういうものですか?」
「そういうものだよ」
タカ丸は頷いて、だから今日の話は火薬委員会だけの内緒にしとこう、と口に人差し指を当てた。
伊助はタカ丸のほのめかした言葉で土井の気持ちがわかってしまったような気がしたが、それをここで明らかにしたところでいいことはないような気がして、自分の心の中に留めておくことにした。
【 六、皆本金吾 】
冬休み。師も走るほど忙しない時期である。
当然のことながら外は雪が降ることもあるような気候で、好んで野宿しようなどと考えるようなもの好きはいない。
そんな中、また剣の師である戸部の家に居候していた金吾は、師と共に街を彷徨い歩いていた。師の行き過ぎた行動(家屋破壊)により、また借り家を追い出されたからである。幸いにも今日は天気が良く、日中はぽかぽかと暖かくて過ごしやすかったが、じきに日が暮れる。そのことを考えると、胃が痛い。
どこか一晩すごす宿を探さねば…と血眼になって探して歩いているとき、声を掛けられた。同級のきり丸であった。
「金吾、どうしたんだよ?」
商売のためか女装しているきり丸は、それはそれはかわいらしい姿で、声を掛けられたときは一瞬どきりとしたほどだ。しかしすぐに我に返り、これ幸いと今の境遇をきり丸に話す。
「そういうことなら、うちに来れば?」
まあ土井先生の家なんだけどさ、そう話しながらも商売の手を止めない彼女…もとい彼は、見事な手腕で売り物の正月飾りを捌き切ると、荷物を片付けながら戸部と金吾を家に呼ぶ準備を始めた。
救いの神様(女神様かもしれない)がここにいた!と金吾は心から感謝した。その時は。
女装したきり丸は、近所のおばちゃんたちに笑顔で挨拶をしながら我が物顔で土井の住む長屋に入っていく。
「ただいまー!先生、お客様ー!!」
町屋の入口まで空腹でふらふらになった戸部を何とか連れてついていくと、家主である土井が驚いた表情をしつつも快く迎え入れてくれた。
事情を聞いた土井は「そういうことなら、今晩ここに泊っていきなさい」と言うと、やれ食べ物だ、布団だと二人が泊まれるようにすぐに手配し始めてくれた。
土井が大家さんから米と布団を借りてくる間、きり丸は中庭の井戸で手を洗うと、女装も解かずに土間で煮炊きの準備をし始める。その働く姿がまるでこの家の若妻のようで、金吾はきり丸から目が離せなくなってしまった。
日が落ちて食事の準備ができると、賑やかな食事が始まる。いつもは戸部と二人で静かに食事を摂るが、今日はどこから調達してきたのか酒を酌み交わす恩師たちが、和やかだ。
「あー!なんでお酒なんか!?」
「いいだろう、今日くらい」
そんな土井ときり丸のやり取りを金吾は眺めつつ、きり丸にすすめられるまま雑炊を啜る。きり丸お得意のタダの材料ばかりを使ったドケチ雑炊なのだが、楽しく賑やかな食事のせいか、たいそうおいしく感じる。金吾は昼間家を追い出されたことを思い出しつつも、今日ここに来ることができてよかった、としみじみと思った。
宴もたけなわ、酒が入ってすっかり気分の良くなった二人の師たちは、それぞれ良い感じに酔いが回っていた。戸部に至っては、今にも目を閉じそうな様子である。
「あーもう、二人とも飲みすぎですよ」
きり丸はそうたしなめつつ、食事の片づけを始める。
「金吾、悪いけど布団敷いてくれるか?」
きり丸に頼まれて、金吾はすでに目を閉じてしまった戸部に適当な羽織ものを掛けると、布団を敷き始めた。
先ほど土井が借りてきた布団と、元々あった布団を敷いて…三組分。おかしい。一人分足りない。
「土井先生、布団が一組足りません」
「あー、大家さんの家から一組しか借りられなかったんだったか」
大丈夫大丈夫、と至極ご機嫌な様子で土井が答える。何が大丈夫なのかわからないが、とりあえず戸部を引きずって手前の布団に収めて、まず一組。
まあ自分ときり丸が一緒に寝れば解決だろう、などと考えていると、片付けを終えてついでに着替えも済ませたきり丸が、「金吾、お前そっちの布団を使えよ」と真ん中の布団を指さす。
「先生ときり丸は?」
「俺たちは、これで大丈夫だから」
「でも…」
いいからいいから、ときり丸が布団を薦めてくる。遠慮しつつも、金吾が寝る支度を調えて、もう一組。
「さて、土井先生もそんなところで寝てないで、ちゃんと着替えて布団で寝ますよー」
「んー、めんどくさいー」
渋る土井に、もうしょうがないんだからと零しながら、きり丸が小袖を無理やり脱がせて寝巻を肩に掛けた。土井がおぼつかない手つきで前をあわせ、腰ひもを結ぶ。それが終わるのを見届けたきり丸が土井を抱えると、土井は嬉しそうにきり丸に抱きついた。髪を下ろしたきり丸の寝巻姿が先ほどまでの女装姿と重なり、なんだか師弟を通り越して、違うものに見えてくる…ような気がする。
そしてきり丸に抱えられた土井が布団に辿りつくと、二人は仲良く一組の布団に収まった。
これで三組目。
「灯り消すぞー」
きり丸に言われて金吾も慌てて布団に入ると、ふっと行燈の火が消える。
しんとした部屋に、戸部のいびきとともに聞こえてくるのは。
「きりまるぅ、お前あったかいなぁ」
「ハイハイ。先生、今日はおとなしく寝てくださいねー」
二人のやりとりに妙な想像をかきたてられて顔を真っ赤にさせた金吾は、掛け布団を頭からすっぽり被ってできる限り視覚と聴覚を遮断すると、やっぱり来なければよかった、と後悔するのだった。
【 七、黒木庄左エ門 】
明日からの校外実習は二人一組で市井の人に変装して行うらしい、そう聞いてきたのは、学級委員の庄左エ門だった。
「うちの組は奇数だから、誰か余るよな?」
誰かが口にした疑問に対して、庄左エ門は「もちろんそれも聞いてきたさ!」と胸を張る。
「いつもは三人組を一つ作るけど、今回は男女二人組の変装をするから、余った一人が先生と組むって」
「先生って?」
男女二人組の変装で先生と組む、と聞いて、全員がごくりと唾を飲む。
「安心して。土井先生だって」
庄左エ門の答えに、皆ホッと胸をなでおろした。実は庄左エ門も、聞いたとき最悪の事態(?)を想像したのだ。改めて確認しておいてよかった、と思う。
「土井先生なら、男でも女でもどっちでもいけるよな」
「男女といっても、別に夫婦者でなくてもいいみたい。親子とか兄弟姉妹とか、あとは仕事の組み合わせとかでもいいって」
ざわざわし始めた教室内をいったん収めるべく、庄左エ門が付け加える。
「組み合わせ方はこっちで決めていいって言ってたけど」
庄左エ門が続けると、皆思い思いに意見を口にする。同部屋がやりやすいだの、同部屋じゃ男女の組み合わせは無理だのと様々な意見が飛び交う中で、時間がもったいないと思ったのかきり丸が「くじで決めりゃ、公平なんじゃねえの?」とつぶやいた一言を、庄左エ門は逃さなかった。
「くじって意見が出たけど、みんなはどう?」
「賛成!」
そんなわけで、急遽作られた紙縒り(こより)の紙籤(かみくじ)。先端の色を分け、同じ色を引いたもの同志が対を組む。色のついていない白い紙縒りを引いたものが土井と組むことになる。
当然のことながら、実習を行うなら先生と組んだ方が絶対的に有利だ。紙縒りを選ぶ手にも、自然と力が入る。
順番にくじを引いていき、その結果、土井と組むことになったのは、きり丸だった。
「きり丸、いいなぁ」
「うらやましー」
羨ましがる声が飛び交う中で、きり丸はあまり嬉しそうではない。
「土井先生とペアなんてさ、いつもとあんま変わらないからなー」
女装してバイトして怒られて。そんな普段と変わり映えのしないことを課題にして何の意味があるのかとも思うが。
「きり丸は不満なんだね。じゃあ、特別に学級委員長の僕と代わろうか?」
庄左エ門が一歩前に出る。先程組まれた相手は三治郎。男女どちらの役になっても、つつがなく課題をクリアできるだろう。
庄左エ門ずりぃ、という周囲の声を制して、きり丸の前に、持っている紙縒りをぐいっと差し出す。
「どうする?僕、土井先生と夫婦役って一度やってみたかったんだよねー」
庄左エ門がニッコリと笑顔を見せる。きり丸に眉間にうっすらとシワがよったのがわかった。
「い、いや。やっぱ、くじで決まったのを勝手に変えるのはダメだろ?」
きり丸は自分が引いた紙縒りを慌てて懐にしまうと、「俺、先生のところに行ってくる」と小走りに教室を出ていった。
それを見て、庄左エ門はくすりと笑う。
本当は、先生方から頼まれていたのだ。きり丸の女装は当たり前になりすぎていて他の皆の課題の妨げになるから、あえて先生と組ませてほしいと。そこで、庄左エ門は少しだけ細工をして、きり丸にわざと白籤を引かせたのである。
本当は土井と一緒に組むことが嬉しいくせに、恥ずかしくてつい天邪鬼な態度をとってしまうきり丸を予想していなかったわけではない。だからこそ先ほどのような少し強引な態度に出たのだが、あんなにあっさりと嵌まってくれるとは。
ーーまったく、素直じゃないんだから。
庄左エ門はくるりとみんなの方に向き直ると、「さて、もうすぐ授業が始まるぞー」とみんなに着席を促した。
【 八、加藤段蔵 】
団蔵は困惑していた。
彼は、村の長の跡取り息子だ。馬借という立派な職を担う家で、幼いころから馬と戯れてきた。将来的には家を継ぐつもりで、その勉強も兼ねて忍術学園に入った。勉強や実技、身を守る術を身に着けることは、家を存続させるためにも必要なことである。
そして、もう一つ。家を存続させるためには跡取りを作らなければならない。そのためには嫁とりも重要な仕事である。
もちろん家のつながりもあるから、勝手に「この娘を嫁にする」というわけにはいかない。それでも両親が、団蔵ができるだけ好きな相手と一緒になれるようにと心を砕いてくれているのは、団蔵も知っている。
だから、団蔵はできるだけ良い娘を見出せるよう、日々女の子の観察を欠かさない(決して女好きだからだからではない。決して)。
そんなわけで、家を離れて忍術学園に入ってからは、可能な行動範囲の中でとはいえ、自分の目はだいぶ肥えたと思っている。
ただ、運命の相手が見つかったかといえば、今のところその兆しはない。
まず、普段日常を共にしているのは男ばかりだから、問題外である。食堂のおばちゃんや事務のおばちゃんは優しいとは思うが、「あんな母ちゃんがいたらいいな」と思うだけだ。
ちょっと広い目で見ると、忍術学園にはシナ先生とくのたまたちがいる。若い方のシナ先生は、かなりの美人だ。おばあちゃんの方のシナ先生も意思は強いが気立てが良くて、いずれ年をとってあんな人と共に過ごせたらいいなとは思う。だが、相手としてはどちらも年が離れすぎていて論外だ。
現実的なのは、くのたまたちである。こちらはどの子もかなり洗練されている。さすが、自分の魅力を売りにすることを目指している子たちである。ではあの子たちと付き合いたいかというと、否と即答する。怖い。怖すぎる。何をされるかわかったものではない…というのが、恐怖体験を何度もしてきた団蔵の答えだ(しかし、何度も騙されていることも事実である)。
外に目を向けてみよう。実習などで城に潜入したり、山などで遭難した姫などに遭遇することもあるが、そういった類は基本的にあまり接点もないので横に置いておく。街にも女の子たちはたくさんいる。もちろん中にはかわいい子もいて、店で働いている子や、家の仕事をしている子など実に様々である。だが、たいていの子はくのたまのように洗練されているわけではなく、よく言えば素朴、悪く言えば野暮ったい子も多い。
その中に時々「おっ!」と思う娘がいた。見つけた時の感動はひとしおだ。街で野菜を売っているその娘はかわいいけれど威勢がよく、物おじしない。それでいて、愛嬌があるのだ。お客さんとやりとりを聞いていても、頭の回転がいいのか会話に機転が利いているし、それこそ団蔵の想像する理想の嫁だった。
どうやって声を掛けようかと機会をうかがいながら、観察する。実は周りにも同じような男が幾人かいて、出し抜かれないようにしなければならない。そうやって伺っているうちに、その娘は最後の二品となった。良いタイミングだ。その最後の二品をまとめて買ってやろうと団蔵が一歩前に出た時だった。
「あら、団蔵じゃない!」
その娘が、嬉しそうに声を掛けてきたのだ。知り合いか?だがこんな知り合いいない。混乱する団蔵の尻目に、「ひどいわ、忘れちゃったの?」と悲しそうな顔をする。
まてまて、思い出せ。このままでは泣かせてしまう。こんなにくりっとしたちょっと釣り目の、笑顔が可愛くて、威勢が良くて、機転が利いて、商売上手でちょっと低めの声の知り合いなんか…
「あ」
「やっとわかった?」
団蔵はガックリと落ち込んだ。理想の嫁だと思ったのは、級友の男だった。
それからというもの、どんな女の子を見ても、あれ以上の理想と思える女の子を見つけることはなかった。ちょっとかわいいと思っても、きり丸が頭の片隅にちらつく。比較しても、あれを超えることはない。
俺は男を好きになってしまったのか…!そんな風に落胆しつつも、気づくと団蔵はきり丸を目で追うようになっていた。観察していると、今まで気づかなかったきり丸の魅力が見えてくる。確かに金目のものに目がないし、銭のことになるとありえない行動をすることもある。けれども、身のこなしは軽いし、バイト最優先で勉強をおろそかにしがちだが、頭の回転が速いのか機転も利く。さらにもともとの顔立ちもあるにせよ、髪や肌の手入れには相当気を使っているようで、美人という評判も実は努力の賜物なのかもしれない。
何よりも、時々見せる屈託のない笑顔。これが、きり丸から目が離せなくなる大きな要因であった。
そして、同時に団蔵は気づいてしまったのだ。きり丸がそんな風に笑うときには、そばにいつもある人物がいることを。さらに、その人物が団蔵と同じようにきり丸を見つめ、そしてこちらを牽制するように鋭い視線を送ってくることを。
相手にも様々な障害があるにせよ、力でも立場でも、とても勝てるような相手ではない。
――ああ、俺は叶わぬ恋をしているのか。
早々に自分の失恋を知ってしまった団蔵は、やるせない気持ちを心にそっとしまい込んだ。
【 九、佐武虎若 】
「照星さーん!」
虎若はブレない。”憧れの照星さん”に近づくためならどんな辛い鍛錬だって乗り越えるし、自ら進んで狙撃訓練に志願することもある。
彼を可愛がる彼の父親が気の毒になるくらい、照星バカだ。
とくに今年の春卒業した先輩が実家の鉄砲隊に就職してからというもの、自分もそれに続け、いやそれを超えていくのだと力の入り具合がさらに大きくなり、事実、急激に狙撃の腕は上達した。日常的に火縄銃の扱いを教えている担任の山田が感心しきりなのだから、よほどだろう。
そんな虎若が、用事があって訪ねてきた照星の周りに一日中まとわりついていた日、夕暮れ時に濡れ縁で一人で照星から贈られた愛用の火縄銃の手入れをしていると、もう一人の担任である土井が声を掛けてきた。
「精が出るな」
「いえ、日課ですから」
虎若にとっては一日の締めくくりの日課である。
「ずいぶん手際が良くなったなぁ」
「ありがとうございます」
土井にしみじみと言われて、虎若は心から嬉しくなった。火縄銃にかかわる腕を褒められるのは、虎若にとっては最高の瞬間である。
土井は虎若の隣に腰掛けると、虎若の作業を眺めていた。無言の時間が過ぎ、虎若が先生は何をしに来たのだろうと疑問に思っていると、土井が、おもむろに口を開いた。
「虎若は昔から変わらず、ずっと照星殿が大好きなんだな」
「そうですね、照星さんは昔から僕にとっては憧れであり、目標でもあります」
なかなか近づくのは難しいですけどね、と手を止めずに虎若は答える。
「そうか」
虎若の手元から視線を外して空を見上げた。
「照星殿が羨ましいな」
土井が零したその一言を虎若にはつぶさには理解することができず、思わず聞き返す。
「そうですか?」
「羨ましいさ」
土井は膝の上に頬杖をついて、虎若を見た。話している間に一通りの作業が終わった虎若は、手を止めて土井と少し向き合うように体を動かした。
「自分のかわいがっている子が、自分を目標にして追いつこうと藻掻きながら鍛錬し、どんどん成長していく。こんな嬉しいことはないさ」
しみじみと話す土井に、虎若は少しだけ理解できたような気がした。照星の立場になって考えたことはなかったが、例えば委員会の後輩たちが自分を目標に頑張ってくれたら、やっぱりうれしいと思う。
「先生もそうなりたいと思いますか?」
「そうだな。教師としては、教え子がそうやって自分を目標にして懸命に頑張ってくれる姿を見たら、そんな嬉しいことはないな」
私みたいな若造が言うのは烏滸がましいんだけどな、と土井は笑う。
「俺、土井先生が目標じゃなくて、なんかすみません…」
「いや、虎若みたいに目標とする人がいるということも、本当に羨ましいことなんだよ。利吉君が山田先生を目標としているように、金吾が戸部先生を目標としているように、誰かを目標とすることは成長する糧にもなる。それが私である必要はないし、虎若は照星殿を目指してしっかり頑張りなさい」
「はい!」
級友たちにはなにかと飽きられがちな自分の好意が肯定されて、虎若は嬉しくなって大きく返事を返した。
「だいたい、たくさんの教え子たちに目標になってもらうなんて、贅沢だよな。一人いれば十分なんだし」
その一人がなぁ…と土井が腕を前に伸ばして伸びをしながら、誰へともなしにつぶやく。虎若はそんな風に弱音を吐く土井の姿を見るのは珍しいと思いながら、手元の道具を片づけ始めた。
「それを片したら、しっかり休みなさい。明日も朝から実技だろう?」
「はい!ありがとうございました!」
去っていく土井に返事をしながら、土井を目標にしたい人なんかそこら辺にたくさんいるのではないかと、虎若は思う。正直、土井の強さは計り知れない。普段はやれチョークだ出席簿だとおおよそ真面目な武器を使って闘うことはないが、ひとたび本気を出せば、実技担当の山田ですら苦戦するような相手だと聞いている。
『自分のかわいがっている子が、自分を目標にして追いつこうと…』
――あ、きり丸のことか。
土井が本当に目標にしてもらいたいのは。山田が息子・利吉に、戸部が金吾に目標とされているように。
きり丸からはそういった話は聞いたことがないが、土井の話をするととても嬉しそうな顔をする。きっときり丸は、土井のことを尊敬しているのだろうな、などと思いながら、虎若は片づけるべき部材をもって立ち上がった。
周りはすっかり暗くなっていた。
【 十、笹山兵太夫】
六年生に進級してすぐ、進路希望調査書が配布された。
は組の大半は小さな頃から家を継いだり目的を持って入学したりしているから、進路に悩んでいる様子はなかった。実際、調査書もほとんどの人が直ぐに提出したようだ。
だが次男である兵太夫は、家業を継ぐ訳でもなく、就職先を見つけなければならない。
一度、からくりをもっと追及したいから学園に残りたいと書いて提出してみた。しかし、学園で働く前に一度外に出て社会を見ろ、と即却下されてしまった。
もちろん、仕事を選ばなければ就職先などすぐに見つかる。それくらい、この忍術学園に対する世間の評価は高い。しかし、この先もからくりの研究を続けるのであれば、ある程度の条件は死守したい。仕事ならなんでもいい、というわけにはいかないのだ。
締め切りは、今日の夕暮れまで。すでに授業が終わって、夕暮れまでにはあと一刻ほどとなっていたが、兵太夫はどう書いていいのかわからず、教室の片隅で頭を抱えていた。
書類を見るのにも飽きてふと顔を上げると、斜め前方にも同じように悩んでいる級友が目に入った。きり丸である。
こちらもまた、進路に悩む一人であった。戦災孤児である彼は継ぐ家業もなければ、それどころか住む場所すら探さなければならない。
これまでは受け持ちの担任であった土井の家に居候していたが、卒業したら出ていくつもりだと聞いたことがある。
逆に言えば、制限なく就職先を選べるということでもある。
彼は入学当初から、自ら稼いで学費を賄ってきた。十の子どもの少ない稼ぎで決して安いとは言えない学費をきちんと支払ってきた彼は、多少悪どいこともやってはいたが、商才があることは間違いなかった。学年があがるにつれて、忍者の仕事を手伝うことも多くなり、アルバイトにかまけて勉強しないせいで成績こそ悪かったものの、忍術はかなり腕の立つ方である。実務経験と持ち前の頭の回転の良さで、商売人としても専門職の忍者としても問題なくやっていけるであろう。
そんな彼のこと、お得意の口八丁でさっさと条件の良い住み込みの仕事を見つけてきそうなものだが、進路希望調査書を書くのに相当悩んでいるようであった。
兵太夫は立ち上がって、書類をもってきり丸の傍による。
「きり丸もまだ提出してないの?」
「あー、まぁ」
きり丸の隣に腰を下ろしながら聞くと、なんだか煮え切らない返事が返ってくる。
「あくまで希望なんだし、忍者として城勤めする、とか適当に書いとけばいいじゃん。それとも、商売しながら忍者するとか?」
「いや、まぁそうなんだけどさ」
きり丸は兵太夫を見上げて、渋顔をする。
土井先生がさ、忍者は危険が多いとか、城勤めしたらなかなか帰ってこないだろうとか、商売だったら遠くでなくても近場でもいいじゃないかとか、希望書いてもなかなか通してくれなくてさ。
そんなような類のことを、きり丸は口を尖らせてぶつぶつと呟いた。
「ふーん?」
何を悩んでいるかと思えば、親馬鹿か、ただの惚気か。
アホらしい。
兵太夫は自分の調査書に『城勤めの忍者』と殴り書きすると、バンと机を叩いて立ち上がった。そして、驚くきり丸に今思った言葉を突きつける。
「希望職種は『嫁』とでも書いとけば?」
教室を出るときにチラ見したきり丸の顔が真っ赤だったことは、いつかのゆすりネタにするために取っておこうと思う兵太夫だった。
【 十一、猪名寺乱太郎 】
春。出会いの季節でもあり、別れの季節でもある。
乱太郎は室内から外を眺めながら、この景色も明日で最後なのかと感慨にふけっていた。
6年在籍した学び舎。六年前にここに来たときは、とてつもなく広く感じた学園の敷地も、学年が上がるにつれて狭く小さく感じるようになった。
そして、六年間同室で苦楽を共にした親友たち。朝から晩までほとんど一緒の生活をしていたあの頃から、不安な日も楽しい日も、いつも彼らと一緒だった。彼らがいたから、ここまで乗り越えられてきた。
そんな親友たちの一人は、卒業後に実家に帰ることを楽しみにしながら、最後の晩餐と食堂に出かけて行った。家に帰ったら、きっともっと贅沢三昧の日々を過ごすことになるのだろうが、それでも六年親しんだ食堂のおばちゃんの味は離れがたい。
そしてもう一人は…と視線を背後に動かす。床に寝転がったまま微動だにしない男が、一人。
一見寝ているように見えるが、実はしっかり起きている。卒業を前にみんなが浮足立っている中で、先ほどから一人不貞腐れているのである。
そのくらい相手の気配でわかる程度は、一緒に過ごしてきたつもりだ。
まあ、わからないでもない。同じ組のほとんどの者が、家を継ぐために実家に戻る。ここを離れるのが寂しいのはおそらく皆一緒だが、家に帰れる嬉しさもまたひとしおだ。
だが、彼…きり丸は、もはや実家とも言える土井家を、卒業とともに出ていかなければならない。
学園と土井家からの卒業。彼にとって卒業は、帰る場所をすべて失うのと同義であった。
卒業してしたら、すぐフリーの忍者になるときり丸は言っていた。最初のうちは仕事を撮るのが難しいだろうからフリーの先輩である利吉さんのお世話になると思う、とも。不安定な職に、もしかすると住む場所も確保できないかもしれないという状況は、彼でなくとも不安でいっぱいになるだろう。
けれども、住み込みの忍者の職だって、忍者ではないただの商売人としての道だってあったはずなのに、わざわざ険しい道を選んだのは彼自身なわけで。
「あーもう!」
乱太郎は無性にイラついて、唐突に叫んだ。
びくり、と寝たふりをしていたきり丸が体を震わせる。
「いつまでウジウジしてるの!? 声かけてもらえないからって、いつまでそうやって不貞腐れてるつもり?」
「な、なんだよ、いきなり?」
くるりと振り返って文句を言うと、目の前の男は何事かと身体を起こした。
「だいたいねー、なんか行動起こしたの?土井先生に、自分のことをもっとちゃんと見てくれって、ちゃんと言った?」
「…なんのことだよ?」
きり丸は視線をすっと外して、そっぽを向いた。この期に及んで、まだすっとぼける気か。
「隠さなくったっていいんだよ、知ってるんだよ。ずっと傍で見てきたんだもの!」
きり丸が土井に対して、保護者以上の、いや憧れ以上の想いを抱いているのに乱太郎が気づいたのは、最近のことではない。きり丸自身が気づいていたかどうかは知らないが、いつだって彼は土井を目で追っていた。長期休みに入るときには口では文句を言いながらも嬉しそうにしていたし、女の子がどんなにちやほやしたって一切目もくれないこの男が、土井が誉めた彼の長髪をそれはそれは大切に手入れしてきたことを、自分が知らないとでも思っているのか。
「だって、あの人にはあの人の幸せがあるだろ?ただでさえ婚期逃してるんだし、オレがいつまでも傍でウロウロしてたら、大迷惑だっつーの」
さすがにすっとぼけるのは難しいと観念したのか、きり丸がこちらを向いて言い訳を並べる。しかし、それは私に対する言い訳ではない。行動を起こさない自身に対してのそれだということに、きり丸は気づいているのだろうか。
「それ、本人に聞いたわけ?」
「そんなこと、聞けるわけないだろ!」
即答である。聞く勇気がないのだ。
男同士、師弟関係。決して誉められた感情ではないのかもしれない。それでも、お互いを想う気持ちは否定できるものでもない。
「聞いてきなよ、今。聞かなかったら、後で絶対後悔するよ?」
「後悔するかもしれないけど、聞けねぇよ」
再びそっぽを向いてしまったきり丸に、乱太郎は我慢がならず、詰め寄った。
「そうやって後悔して、後でグチグチ言ってきても、私絶対に愚痴なんか聞いてやらないからね!」
「う…」
ぐうの音も出ないきり丸の腕を掴んで、無理やり立たせる。
「ほら立って。今すぐ!」
恨めし気な目でこっちを見てくるが、そんなの構いやしない。
「大丈夫だから。先生はきりちゃんのこと、絶対に拒絶したりしないから」
だって、待っているのはきっと土井先生の方も一緒だから。
乱太郎はそう確信して、きり丸の背を押し濡れ縁へと追い出した。
「後悔しないように、行っておいで!」
小走りで教員長屋の方に駆けていくきり丸を見送りながら、乱太郎は明日が晴れることを願った。
PR